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篠山

丹波の篠山はデカンショ節の故郷として全国に知られた地方都市である。また、中心部を貫く国道372号線は通称デカンショ街道として親しまれている。
篠山の町は京街道の宿場町であったが、徳川家康がこの地の重要性を見抜いて、1609年、子の松平康重を領主に据え、西国の大名に命じて各大名の分担による天下普請で城を築かせ、西国大名への抑えとしたのが始まりといわれる。江戸時代には当初5万石、後に6万石の城下町として栄え、京から播磨や山陰地方への交通の要衝、また、丹波地方の産物の集散地として機能してきた。
明治維新になって城は取り壊されたが、明治40年には第4師団、歩兵第70連隊が誘致され、800人余の兵が入営したのを町をあげて歓迎したということである。
大正2年(1913)には篠山口駅から篠山東新町まで軽便鉄道が設置され、小型の蒸気機関車が引く客車は愛らしいものであった。連隊設置後は篠山町には人々が行き交い、自動車、バスなどで表通りは賑やかなものであったという。
篠山周辺では今田の立杭焼(古丹波焼)は天下の6古窯の一として名が高い。
丹南一帯は丹波茶の産地であり、大国寺や文保寺など古刹も多い。


篠山城・大書院

 京、大坂から丹波、播磨、山陰への交通の要として篠山を重視した徳川家康は、常陸国笠間にいた実子の松平康重をここに移して、天下普請で城を築かせた。城造りに参加させられた大名は取り高で合計400万石に及んだといわれる。池田輝政が普請総奉行、福島正則、毛利輝元、浅野幸長、藤堂高虎など名だたる武将が参加して笹山と呼ばれた小山の上に城は築かれた。一名桐が城といい、堅固な石垣を回らした城の周囲は400m四方でそれほど大きくはない。天守閣は用材まで準備された段階で、幕府の指示があり、天守は敵のねらい目にもなるとの理由で遂に建てる事は許されなかった。


篠山城石垣

篠山城大書院

 計画では、三隅に小天守を設けて渡り櫓で連結した連立式天守で、実現はしなかったが城郭史研究の上で重要であるといわれている。本丸には大書院、小書院、広間、城主居館、奥御殿などがあった。城の完成は1609年である。松平康重は1619年には岸和田へ転封となり、以後松平康信に受け継がれ、1748年に丹波亀山城の青山忠朝と処変えとなり、明治に至った。5万石の城下であった篠山は幕末には6万石となっていた。城下は外堀の周辺に侍屋敷、街道筋に町屋を配置し更にその外側に侍屋敷を配置していた。
  城内に青山神社、復元大書院、場外の大手馬出しの近くに青山歴史村があり、旧沢井家長屋門が移されている。城の東馬出しはほぼ旧態を残し、南の馬出しも土塁がほぼ完全に残っているのは、全国的にも珍しいといわれている。
  明治の世となってからは、城は城郭取り払い令により取り壊されたが、大書院だけは費用の点で莫大な予算を要する為に見送られて残った。しかし、昭和19年に失火で惜しくも焼失してしまった。


武家屋敷

 篠山藩は5万石で、江戸末期には6万石に加増された。大名の石高はさほどでもないが、下級の武士の住居が割合多く(十数戸)残っている。
  外堀の西側に面した西新町に残る、藁葺きで武者窓をつけた武家屋敷の長屋門は小林家のもの。その更に西側に残る通りは藩主の警護に当たった御徒士衆の町。一般公開されているのは安間家住宅で、やはり茅葺の門を備えた茅葺き入母屋造りの曲がり家で、土蔵を備えた造りである。1830年にこの辺が火事で焼けたので、その後の再建と思われる。安間家は12石3人扶持の士で、その住居は資料館になっている。土塀に囲まれた土蔵のある家や、展示されている古文書、食器などの日用品、家具、武具などが当時の武士の生活を偲ばせてくれる。


篠山城下、武家屋敷長屋門

篠山城下、武家屋敷安間家

能楽

 篠山の二階町にある春日神社は平安時代初期に奈良の春日大社の霊を勧請したもので、元は城のある笹山にあったので、築城時に現在地に移された。
  春日神社の能楽殿(能舞台)は幕末の1861年に藩主の青山忠良が寄進したもので、当時は箱根より西で一番立派な能舞台といわれた。柱と框が松で出来ており、床は桧張り、床下には共鳴用の壷(大甕)が幾つか埋めてある。
  この能舞台で正月には「翁」の神事、「篠山春日能」(春季)「丹波夜能」(秋季)の3回の能会が催される。
  河原町の妻入り商家近くにある能楽資料館には、能面、能衣装、楽器など貴重な品が展示されている。これらの能面などの蔵品は春日神社の能樂殿の演能に使用される。


春日神社、能舞台床下の壷

能樂資料館の能面/q>

商家

 篠山の城から東南、旧街道筋に当たる河原町には、全国的に珍しい妻入り商家群がある。5~8mと狭い間口の妻側を表に向けた造りで、奥が深い構造になっている。奥行きは40mにも及ぶ。伊勢の町にも妻入り商家はあるが、全国的に見ると非常に少ない造りである。
  表の格子には千本格子、荒格子、蔀戸、中二階には虫籠窓、出格子などが見られる。この商家群を通り抜けて東にゆくと京口に至る街道筋である。
  土産品を商う店先には、柿、栗、枝豆、つるし柿と丹波の土地が生み出した産物が並ぶ。
  この河原町に丹波古陶館があり、古丹波の初期から江戸末期までの作品に接することが出来る。
  赤土部釉の燃えるような輝き、魚紋や葉紋をつけた壷、鉄絵の徳利、塩壷など昔の庶民が使用した丹波焼きの陶器に、素朴な美しさを見出すことが出来るだろう。


篠山市河原町妻入り商家群

丹波古陶館/q>

酒造・猪鍋

 丹波にはおいしい酒が多い。また、丹波は灘や伊丹をはじめ全国へ出稼ぎに行く杜氏の故郷でもある。戦前は中国や満州までも出かけて行ったといわれている。
  自然の厳しい土地柄だけに米以外の裏作を作り難い事情があった。それ故、農民の収入を安定させるのは難しく、自然と近郷へ出稼ぎに行く風習が生まれて来た、と考えられる。
  城跡の北東角(東新町)に丹波杜氏酒造博物館があり、酒造りの道具や資料が展示されている。


丹波杜氏酒造記念館の酒造り道具

牡丹(猪)鍋

 一方、丹波は自然の恵みによる農産物や果物が多いところで、おいしい食べ物が豊富に取れる、味覚の宝庫でもある。松茸、黒大豆(枝豆)、丹波茶、丹波栗、各種栗菓子、柿、地酒、栗酒、山の芋、山椒、山椒漬、牡丹鍋(猪)。篠山肉等である。
   篠山の町には冬場に猪肉を商う店、ぼたん(猪肉)鍋を食べさせる料亭も幾つかある。猪肉は体が温まり、さっぱりした味を愛好する人が多い。冬の味覚の王者の一つであろう。


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